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第1話 もうあなたの花嫁にはなりません⑤

ผู้เขียน: なつめ
last update วันที่เผยแพร่: 2026-06-09 14:29:33

 部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。

 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。

 侯爵本人が来るかもしれない。

 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。

 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。

 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。

 なぜ知りたいのだろう。

 知ったところで、苦しくなるだけなのに。

 胸の前で手を組むと、指先が少し冷たかった。手袋をしていないと、こうしてすぐに手が冷える体質だったことを思い出す。前世では、冬になると指先が白くなり、何度も暖炉にかざした。それを一度だけ、セドリックが見ていたことがある。何も言わなかった。ただ、翌日から書斎にだけ、よく燃える薪が優先的に運ばれるようになった。

 あれは偶然だったのだろうか。

 ああ、駄目。

 そうやって細部を拾い集めてしまうから、私は十年も期待してしまったのだ。

 リリアーナは目を閉じ、深く息を吸った。春先の空気は少し湿っている。庭土の匂い。開ききらない蕾の青い匂い。遠い厨房からは煮込みの香りも漂ってくる。生きている。今ここにいる。まだ何も始まっていない。

 ならば終わらせられる。

 始まる前に。

「エマ」

「はい、お嬢様」

 控えていた侍女がすぐに応じる。リリアーナは振り返り、できるだけ穏やかに告げた。

「便箋と封蝋を用意して」

「お手紙を?」

「ええ。すぐに」

「かしこまりました」

 エマが机へ文具を整えていく。その音を聞きながら、リリアーナは自分の鼓動を数えた。一つ。二つ。三つ。やはり早い。怖いのだ。こんな手紙一通で何かが変わるとは思えない。父に握り潰されるかもしれない。侯爵家に届く前に止められるかもしれない。それでも、何もしないよりはいい。

 前世の自分は、何もしなかった。

 黙って頷き、家のためだと自分に言い聞かせ、与えられた未来へ進んだ。だから今度は、最初に声を上げる。聞き入れられなくてもいい。私は望んでいないと、まず自分で自分に証明するために。

 椅子に腰を下ろす。机の木肌はなめらかで、肘を置くとわずかに冷たい。ペンを取る。インク壺の蓋を開ける。黒い液面が小さく揺れる。呼吸を整える。

 だが、紙の前に座った瞬間、手が止まった。

 誰に書くべきだろう。

 父か。侯爵家か。あるいは。

 ペン先がかすかに震える。インクが一滴、紙の端へ落ちた。黒い染みが広がっていく。その小さな汚れを見つめながら、リリアーナは気づく。自分は今もまだ、完全には割り切れていないのだと。

 会わずに済むなら、それが一番いい。

 けれどもし、もしも彼が前世の記憶を持ち、あの涙の理由を知っているのなら。どうして最後にあんな顔をしたのか、その答えを知らないまま別の道へ逃げれば、きっと一生、胸のどこかに棘が残る。

 それでも。

 それでも私は、あなたの花嫁にはなりたくない。

 その思いだけは揺らがない。

 セドリックの涙は、十年分の孤独を溶かさなかった。むしろ、あれほど苦しかった十年を、もっと残酷なものにした。愛していたのなら、なぜ黙っていたのか。愛していなかったのなら、なぜ泣いたのか。どちらに転んでも、彼女が費やした時間は戻らない。

 戻るのは人生だけで、傷つかなかった心ではない。

 リリアーナはペンを置いた。胸に手を当てる。そこはちゃんとあたたかいのに、奥のほうだけがまだ凍っているようだった。

 その時、廊下の向こうで足音がした。複数人。磨かれた床を踏む、規則正しい革靴の音。その中に、一つだけ、やけに静かで重い足音が混ざっている気がした。

 体が強張る。

 耳の奥がじんと鳴る。

「お嬢様」

 ノックのあと、部屋の外から使用人の声がした。

「ヴァレンティア侯爵様が、お見えでございます」

 心臓が、激しく打った。

 来た。

 前世では来なかった人が、今世では婚約前に、自ら。

 冷たいものが背筋を這い上がる。同時に、腹の底で静かな火が灯る。逃げたい。けれど、逃げてばかりでは何も変わらない。今度こそ、自分の口で言わなければならない。

 もう二度と、あなたの花嫁にはなりません、と。

 リリアーナは椅子から立ち上がった。膝がわずかに震える。けれど足元は崩れない。ドレスの裾を整え、鏡も見ずに顔を上げる。

「……通して」

 そう告げた自分の声は、思ったよりずっと静かで、冷えていた。

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